【COLUMN】風景デザインとは何か:「喪失」から「希望」へ

2011年12月に風景デザイン研究会主催の風景デザイン便りに寄稿した文章を転載します。

「喪失」から「希望」へ

 山が削られ住宅地がつくられる。水田が造成されて大型ショッピングセンターができる。かつてはそこに未来への希望があったのかもしれない。いや、今でもそこには人が集まり、笑顔がある。しかし、私たちはすでにその限界に気づいている。そこで消費されているものや失われていくものを意識せずにはいられない。そこには誰かが何気なく大切にしてきたものや、必死に守ってきたものがあったのではないだろうか、と心のどこかで感じている。思い出、記憶、伝統。私たちの周りで起こる風景の変化には「喪失感」が漂っている。宇根豊が指摘するように、風景にはこの社会が「何を優先しているのか」があらわれている1)。私たちは生まれてからこれまで、無意識のうちにそうした社会のふるまいを見せられて育ってきたのだ。

 「喪失感」のもうひとつの要因は、風景が私たちの心のなかにある「ふるさと」と分かちがたく結びついていることにある。だから、風景は、社会において潜在的に「変わらないこと」を要請されているはずだ。だけれども、日々変わりゆく風景をみながら、「風景の変化=喪失」なんだとあきらめてしまっているのではないか。地域の方々が、風景の変化を葛藤しながらも受け入れようとする姿をみるとそう思う。

 風景は時代とともに変容する。このことは間違いない。だから、「風景をデザインすること」は、変わりゆく風景と向き合いながら、「ふるさと」を守るための戦いのなかに位置づけられなければならない。

 では、その「戦い」の相手とは誰なのか。由布院・湯の坪街道周辺地区における住民による景観ルールの策定と店舗との協議を事務局としてサポートする中で考え続けてきた2)。協議を繰り返した店舗が早々と店じまいをし、また新たな店舗が入ってくる。その繰り返しだ。この戦いはきりがない。そうして気づいたことがある。私たちが戦っている相手とは、眼前の店舗オーナーでもなく、不動産業者でもない。風景の変容を支配している「ものの見方」なのだと。

 風景は、その場所で行われるあらゆる行為の総体的な結果としてあらわれる。皆、各自の価値観、判断基準に従って、環境に対するなんらかの働きかけをする。一見バラバラに見えるそれらの行為には、実際には共通する力が働いている。それは、この時代における支配的な価値観であり、つまりは「近代的なものの見方」に他ならない。

 内山節に従えば「近代社会」とは国民国家、市民社会、資本主義的な経済によって構成される3)。人間中心、個人の自由・平等、カネに支配された価値観。こうした一元的なものの見方が、それぞれの地域における伝統的なもの、個人的なものを、じわじわと消し去ってしまうのだ。由布院に展開する土産屋、旅館、そこに押し寄せる人や車の波は、そうしたものの「あらわれ」ではないだろうか。地域において丁寧に積み上げられてきた人と人、人と環境との関係性は、そうした力の下に埋没し、見えにくくなっていく。

 私たちが、専門家として風景と向き合う時には、この埋没していく「ローカルな関係性」を意識する姿勢が大切だ。だから地域の人々が話す言葉、物語に誠実に、辛抱強く耳を傾け、地域の歴史を丁寧に調べ、そこからその地域固有の人と人、人と環境の関係性を読み解いていくことが必要となる。そして、その時、私たちは、そうした関係性の蓄積を人々にとって共有可能な「物語」に「つむぐ」ことによって、その地域をその地域たらしめているものを過去から未来へとつないでいく役割を担っている。総合計画、都市計画マスタープラン、交通計画、景観計画、まちづくり条例等の地域計画を策定するときにも、道路や河川、公園、駅等の公共空間を設計するときにも、パンフレットやポスター、フライヤー等のデザインをするときにも、私たちは常にこのことを意識しておかなければならない。

 「景観に配慮する」ということは単に見た目の調和や構造物の美しさに留意することにとどまらない。長年に渡ってその場所に蓄積され、近代によって失われがちな「ローカルな物語」を意識し、人と人、人と環境の関係を未来に向けて再構築していくことこそが、風景を考えることの意義である。だから、極端なことを言えば、「景観」や「風景」と言った言葉を使う必要もない。使う言葉はそれぞれの地域に合わせて適切なものがあるはずだ。風景と向きあうということは、地域と向きあうことなのだ。

 風景の変容を「喪失」ではなく、「希望」に変えること。それはつまり、私たちにとっての「ふるさと」を守ること。この九州が、この地で生まれ、育ち、暮らすすべての人々にとってこれからも「ふるさと」であり続けること。九州を訪れ、愛し、応援してくれるすべての人々にとっても「ふるさと」であり続けること。それはつまり、ともに日本の「第二のふるさと」を守り、つくり続けてきた日本中の人々、とりわけ東北の人々の「灯」に九州がなること4)。そのために、この地に積み上げられてきた多様で豊かな関係性の価値を、風景を通して後世に伝えていくこと。風景デザイン研究会の目的はそのことにあるのではないかと思っている。

 中谷健太郎は、このことを「風景を繕い続ける」と表現した5)。この闘いに終わりはない。だからこそ、風景デザインの基盤となる「哲学」を、私たちは世代を超えて問い続けていかなければならない。

参考文献

1) 宇根豊『百姓学宣言-経済を中心にしない生き方』(農文協)

2) 小林一郎編・風景デザイン研究会著『風景のとらえ方・つくり方-九州実践編』(共立出版2008.11)、高尾忠志著『地域ルールの明文化と共有に向けた景観法の活用』(景観・デザイン研究論文集No.7、土木学会、2009.12)

3) 内山節『清浄なる精神』(信濃毎日新聞社)

4) 桑野和泉『ふるさと復興へ 「灯」となる地域づくりを』(西日本新聞「提論 明日へ」2011.4.10)

5) 中谷健太郎『蘇りませや、地域の繕い屋さんたちよ』(博多夢松原の会20 周年記念誌)

風景デザイン研究会HP:http://www.fukei-design.jp 

地域計画家・高尾忠志

小さく、深く、自由に 地域の価値を高める景観まちづくりへ

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